医学部受験の思い出

もう18年近くぶり?に名古屋に行ってきた。行ってきたと言ってもまるまる二日間学会に参加してきただけなので観光してきたわけじゃないんですが、名古屋、自分はやっぱりあんまり好きになれないですね。自分にとって名古屋って医学部に入るために浪人して勉強していた場所なんで、どうしても苦しい思い出ばかり。自分はストレートに医学部に来たわけじゃなくて、2年くらい無駄な時間を過ごしてます。高校のときは何もしたいことがなかったし、目標もなかった。でも高校卒業したら閉塞感しかない地元の福井から早く抜け出したいとはずっと思っていて、東京に行けるって理由だけで受けて合格した某国立大学に入りました。

たいして勉強もしてなかったのにたまたまセンター試験の点数がよくてラッキーで入れた大学でしたが、一緒に入学した周り同級生たちはやりことがあって必死に浪人して入ってきた人たちばかりで、その中で何を勉強する学部かもわかってない自分が1人いて、なかなか溶け込めなくて、授業もおもしろくない、勉強にもついていけないしで、だんだん学校に行かなくなってしまい、そのまま一年生で勝手にやめちゃったんですよね。そのあと親にバレるまでの数ヶ月は何してたかもう覚えてないですけど、結局福井から出て東京に行っても何かが勝手に変わるわけではないし、福井にいたときと違って、自分のことを誰も知らないってそれはそれでつらいことだなと当時は思いました。

自分はとくに努力しなくても県内一の進学校に入れたし、とくに勉強しなくてもセンター国語は200点満点だったし、おれって実はすごいやつだよね?田舎にいるから燻ってるだけで都会に行ったら才能が開花するかも?と期待をしていた自分と誰にも相手にされない現実のギャップがとても惨めでした。まさに八方ふさがりのどん底でしたが、そんな中でも、「環境をどれだけ変えても自分が変わらないと何も変わらないんだ」と気付いた日が自分にとっての第二の人生が始まった瞬間だったと今は思います。

それで何で医学部へ?って思うかもしれませんが、当時は医学部人気がすごくて、二浪でも医学部に入れたらすごいって空気がありました。それに、医学部って卒業したら医者になれるし、ドロップアウトして社会のレールから外れちゃった自分でも医学部に行けば何者かになれる!ってその時は本気で思ったんですよね。そんなこんなで、周りの環境を変えるのではなく、自分が変わろう、医者になるためにもう一回頑張ってみようと決意しました。勝手に大学やめて半分くらい親に勘当されたくせに、もう一回チャンスをくださいなんて頼むのは厚かましすぎて、実の親相手でも頭を下げるために実家に帰るのがめちゃくちゃ緊張してたのを今でも覚えています。真剣に話し合った後に「やるからには最後までやりきれ、本気でやりたいっていうなら俺ができることはしてやる」といって名古屋の予備校に行かせてくれた親の男気に感謝です。

名古屋に知り合いがいたわけでもないんですが、誰も自分のことを知らない環境で一からスタートしたいっていう気持ちがあったので、なんとなく東京でもない、大阪でもない、中間の名古屋の河合塾にしました。河合塾にした理由はよく覚えていないですが、センターの成績かなんかで安くなったからだったような気がします。

名古屋の予備校時代はひたすら勉強していました。なんせ、現役高校生から1年以上勉強していなかったので全部忘れていて、偏差値が絶望的で医学部受験の足切り以前のレベルでした。本当にその1年は朝から晩まで予備校へいって勉強していて、ご飯と風呂以外の時間は勉強していました。ここで生まれ変わらないと自分は一生惨めな思いを抱えていきていくことになる。毎日必死でした。名古屋にいた1年間は、友達も話し相手すらできなかった。河合塾の進路指導の先生と月に数回話すだけの日常で本当に孤独だったけど、合格するために来ている予備校で友達ごっこ、青春ごっこをしたら終わりだと思ってた。勉強しても勉強しても偏差値があがらない、合格ラインに届かない。夏を過ぎても秋を過ぎても。冬に進路指導の先生と面談したときには、とても合格できるラインには届いていないので今年はあきらめて来年を見据えた方がいいとやんわり言われた。受験勉強は本当に難しい。どれだけやっても受かる保証はどこにもないし、目にみえた結果がわからない分どれだけがんばっても報われる気がしない、常に出口の見えないトンネルを走り続けているようだった。

1月になると成人式があった。なんでこんな時期に成人式をやるんだろう。自分は一生に一回の成人式を欠席した。センター試験の直前という理由はただの言い訳だった。本当は、自分は高校生の時から時計の針が止まってしまっているのにずっと先に進んでしまった同級生の姿をみるのがいたたまれなかっただけだった。今思うと、自分の成人を楽しみにしてくれたであろう両親にも申し訳なかった。成人式の日はたくさんの同級生が電話をかけてきてくれた。応援してるからがんばれ、とか絶対うまくいくから大丈夫、とか言ってくれて本当にみんないいやつで優しかったけど、そのやさしささえも当時の自分にはつらかった。もう電話を取りたくなくて、ケータイを2つに割ってゴミ箱に捨てて歯を食いしばって勉強机に向かったことを覚えている。だから今でも成人式のニュースをみるのは苦手だ。

1月以降は、それまで伸び悩んでいた成績がグッと伸びて一気に合格圏内にまで伸びた。絶対に合格して医者になると強い気持ちで机に向かってきた成果がやっと出てきたんだと確かな手応えを感じた。結局、第一志望校には届かなかったが、今の大学に合格した。希望していた奨学金も借りれて無事に医学部の学生になれた。合格通知が家に届いた日、父と抱きしめあって喜んだ。父親と泣きながら抱きしめ合った記憶は、後にも先にもその1回だけだ。20年間生きてきて一番うれしい瞬間だった。

医学部に入ったら、医学の勉強はとてもおもしろかったし、医者の仕事にとてもやりがいを感じている。医者は自分にとって天職だったとまで思う。もしもあのとき合格しなかったら、もっと浪人して受からなかったら、今と全然違った人生を歩んでいたかもしれない。もしもあの時、といった結果の結末は誰にもわからないけど、あの時、毎日必死で机にしがみついていた時間は自分の人生の中で、非常に充実した1年間だったと思う。当時はただつらいだけだった名古屋での浪人生活も、光を信じて出口のみえないトンネルの中を孤独に走り続けた時間こそが今の自分を構成する大切なピースの一つであるし、あのときの気持ちは絶対に忘れないようにしようと思って生きている。

そして今日、名古屋での学会が終わって帰りの電車までの時間があったから河合塾名駅校の前まで当時の記憶を頼りにいってみた。当時からもう18年あまり経っているが、建物の雰囲気とかはあんまり変わっていない感じがする。当時は誰も自分のことを知らなかったと思うし、誰からも相手にされないような人間だった。そんな自分が、今は産婦人科の医者として患者さんから頼りにされる存在になっているなんて誰にも想像できなかったと思う。ありえないことだけど、もしも今、18年前の自分が河合塾から出てきたら、君が自分を信じて頑張ってくれたから今の自分がいる。無駄なことは一つもなかったと伝えたい。これから先の未来、例えばいまから18年後の未来がどうなっているかはまったく予想ができないし、これから大変なこともたくさんあるんだろうと思うが、どんなに大変な状況でも素晴らしい将来につながると思って、これからも未来を見据えて前向きに頑張っていきたいとあらためて思った。

#いきなりの自分語り

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